日本大学理工学部科学技術史料センター
 

井上 孝 文庫

 井上孝は、常に国土開発の最前線にいた。井上の経歴をたどることは、わが国の国土開発の歩みを著すことでもある。
 井上は、1925(大正14)年2月23日、支那吉林省長春南満洲鉄道附属地の常盤町に生まれた(本籍地:新潟県)。幼年期を大陸で過ごし、京都帝国大学工学部土木工学科に入学。学士試験合格後、2年間大学院特別研究生として在籍した。
 1948(昭和23)年9月、一期生第一号として建設省に入省。管理局企画課在職時、落合林吉課長(日大卒)のもとで、特定地域総合開発計画における只見地域(福島・新潟の県境一帯)の発電水利の調停に携わる。1950(昭和25)年頃、新潟出身の国会議員であった田中角栄らによる銀山湖(奥只見ダムサイト予定地)の現地視察に随行している。
 1954(昭和29)年4月、近畿地方建設局に移り、大阪国道工事事務所など第一線の道路建設現場で活躍した。現場は、直営工事から請負工事への転換期にあった。井上はその中で、当時あまり知られていない"最新"の施工機械の導入に直接関わっている。
 1960(昭和35)年2月に本省に戻り、国道課長補佐(1960)、二級国道課土木専門官
(1961)、企画課建設専門官(1964)、初代道路経済調査室長(1967)、企画課長
(1969)、東北地方建設局長(1972)、道路局長(1974)、建設技監(1976)、建設事務次官(1978)を歴任した。この間、「道路整備の長期構想」の策定、沖縄返還にともなう高速道路建設などに重要な役割を果たした。
 井上の経歴で特に異彩を放つのは、国会議員の経験である。建設省退官後、1980(昭和55)年7月に自由民主党から参議院全国区に初当選して以来、1998(平成10)年7月まで、国会議員を三期18年間務めた。その間、国土開発幹線自動車道建設審議会委員、エネルギー対策特別委員長、内閣委員長、国会等の移転に関する特別委員長、参議院議員運営委員長、参議院行財政機構及び行政監察に関する調査会長、自由民主党参議院議員副会長などの要職に就いた。
 1992(平成4)年12月には、第二次宮沢内閣のとき、国土庁長官に就任している。
 参議院議員時代は談合問題などに、国土庁長官時代は雲仙普賢岳噴火災害および北海道南西沖地震の震災復旧などに尽くした。
 参議院議員の任期が満了した1998(平成10)年の秋に、勲一等瑞宝章を受章している。2003~04(平成15~16)年、㈳土木学会で井上孝オーラル・ヒストリー・インタビューが実施された。このとき井上自身から、日本大学にはかつて「日本大学国土総合開発研究所」(所長:鈴木雅次工学博士)が設置されていたことをうかがった。インタビューは、2004(平成16)年4月まで6回にわたって行われた。しかし5月に予定されていた第7回のインタビューは、直前に井上が体調を崩し、同年11月7日、入院のまま帰らぬ人となった(享年79歳)。
 その後、オーラル・ヒストリー報告書の作成に際し、井上令夫人との打合せの中で、日本大学理工学部科学技術史料センター(CST MUSEUM)に、関係資料群(井上孝文庫)を寄贈するお話をいただいた。段ボール箱2個ほどの資料群の中には、井上の辞令一式があり、そこに「日本大学国土総合開発研究所研究員委嘱状」(1952年12月1日)が含まれていた。本資料によって、井上が同研究所で研究員をしていたことが、初めて明らかになった(オーラル・ヒストリー・インタビューのとき、研究員について言及はなかった)。
 井上孝文庫には、京都大学時代における工学部土木工学教室主任の石原藤次郎教授による「人物考査表」(1948年8月4日)、建設専門官時代の35日間におよぶ欧州出張時の自筆調査ノート(1966年11~12月)、参議院議員運営委員長時代の「PKO国会関連資料」(1992年6月)、国土庁長官時代の「北海道南西沖地震に関する対応状況(手持ち資料)」(1993年7月19日)など、わが国の国土・地域・都市開発事業にかかわる貴重な資料が含まれている。
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