日本大学理工学部科学技術史料センター
安河内 昂

安河内 昂


人物年譜
 

安河内 昂 文庫

 日本大学理工学部物理学科、および日本大学量子科学研究所の前身である日本大学原子力研究所には、創設のころから物性グループが組織されている。当初計画では同グループの設立は予定されていなかったが、1958(昭和33)年11月24日の教室会議で承認を受け、核融合と併設する実験グループとしてその設立が決定する。安河内昂は物性グループの初代教授として、物性グループの躍進に大きく寄与した磁性・低温分野の研究者である。
 安河内昂は1924(大正13)年1月2日に福岡で生を受ける。父親が哲学と宗教心理学の教鞭をとっていた旧制松山高校を卒業後、東京大学理学部物理学科に入学する。彼の磁性研究の師・茅誠司(当時、東大総長)の研究室に出入りするようになったのは、1945年ごろであったらしい。当時、茅は米軍の磁気機雷に対する掃海方法の研究を行っており、安河内もその研究を手伝ったという。同学科卒業後、1949(昭和24)年からは東京大学理学部助手に、1959(昭和34)年11月には東京大学理学部専任講師の職に就くが、同年12月に日本大学理工学部物理学科教授として物性グループのリーダーに就任した。なお、安河内が日大理工に着任するきっかけとなったのは、物理学科および原子力研究所の創設委員会メンバーで、彼と面識があった東京大学助教授・中村誠太郎の影響が強かったと言われている。中村が日大理工に安河内を連れてきたことで、安河内と物理学科とのつながりができたらしい。
 ところで、創設されたばかりの物性グループは日大理工ではなく東大の中に組織された。1960(昭和35)年、東大の安河内研究室に仮実験室がつくられたのがその始まりで、兼松和男や近藤淳らがその創設に寄与した。安河内と同じ茅研究室出身で物性グループの関沢和子(元、日大理工教授)によれば、フィリップスの窒素液化機や小型磁石、磁石天秤などが日大理工に設置可能になるまで、東大内に一時的に置かれていたという。駿河台校舎6号館が竣工されると、1961(昭和36)年4月に物性グループは拠点を日大理工に移し、極低温と磁性の研究を開始した。安河内は茅の弟子であり、磁性分野が専門であったことは言うまでもない。安河内と兼松はすぐに3d遷移元素とIVb族元素の金属間化合物に関する磁性の系統的研究に従事し、ほかにあまり研究例がなかったことで学会でも注目を浴びることになったという。
 その一方で、極低温実験に関しては、1960年度から文部省(現在の文部科学省)理科教育特別助成金を獲得できたことで、ヘリウム液化機が私学の大学として初めて導入され、1961(昭和36)年7月にはヘリウムの液化に成功する。また安河内らは、不均質第2種超伝導体(硬超伝導体)の物理が未開拓であり、応用に直結した発展性のある新分野であることに着目し、1963(昭和38)年以降、「不均質第2種超伝導体の基礎および応用」を主とした超伝導研究に取り組んだ。その結果、1966(昭和41)年に米国製線材(米国Wh Chang製NbZr)を使った4Tの超伝導マグネットの試作に成功する。また3年後の1969(昭和44)年、物性グループが設計した超伝導線材NbTiを使用した超伝導マグネットが試作され、商用電源による超伝導マグネットが日本で初めて開発された。この後、安河内は電気試験所(現、産業技術総合研究所)の大型プロジェクトに指定されたMHD発電、国鉄(現、JR)の磁気浮上式鉄道(リニアモーターカー)計画における超伝導技術開発にも寄与したほか、核融合実験装置の国際超伝導磁石開発事業も成功に導く。このように、基礎研究ばかりでなく、超伝導マグネットの応用面や実用面での利用も安河内は常に模索していたうようで、学外での活動にも積極的に関わることにより、日本国内での超伝導研究の拡充と育成に尽力したのであった。
 安河内昂文庫には彼が参加した委員会議事録や実験ノート、メモ書き、研究者との書簡、論文の草稿など貴重かつ他機関に所蔵されている可能性が低いものが多数含まれており、本文庫は、日本の低温理工学・超伝導研究に関する歴史を調査・研究する上での第一級史料であると言える。現在、データベース作成および史料の中性紙保存箱への移し替えなど、史料の公開に向けた作業が進められている。

(雨宮高久)

 ページTOPに戻る
閉じる閉じる