日本大学理工学部科学技術史料センター
木村秀政

木村秀政


人物年譜
 

木村秀政 文庫

 1903(明治36)年12月にライト兄弟の人類初の動力飛行として実現したその4カ月後、1904(明治37)年4月13日、木村秀政博士は札幌市に生まれた。
 幼少期に飛行機と出合い、1924(大正13)年4月、東京帝国大学で創設されたばかりの航空学科に進んだ。同級生にはゼロ戦を開発した堀越二郎、飛燕を開発した土井武夫などそうそうたるメンバーがいた。
 木村は、戦前に東大の航空研究所技師として飛行機の周回飛行の世界記録を樹立した航研機やA-26の開発に没頭した。A-26は戦時下で公認されなかったが、現在もプロペラ機で16,435kmもの距離を飛べる飛行機は存在しない。
 1947(昭和22)年9月に東大を自然退官した木村は、粟野誠一(日本大学名誉教授)の誘いを受け、日大教授に着任した。
 1957(昭和32)年我が国の航空活動再開とともに、中型機の開発を目的とした「財団法人輸送機設計研究協会(輸研)」が設立されて、木村は初代技術委員長となった。
 木村は、卒業研究として、毎年、つねに若い学生と飛行機について論じ、学生とともに飛行機を作ることを忘れなかった。人力飛行機の開発の前にも多くの軽飛行機などを開発している。
 当時人力飛行はなかなか実現せず、1959(昭和34)年、英国のHenry Kremerが人力飛行に賞金を与えるクレーマー賞を設定したのを機に人力飛行機の研究が英国で活発に行われ、1961(昭和36)年11月に初飛行のニュースを聞いた木村は、学生たちによる人力飛行機の開発を計画した。そして1963(昭和38)年4月、機械工学科航空専修コースの卒業研究テーマとして研究がはじめられLinnet Ⅰ世が1966(昭和41)年2月に初飛行した。
 卒業研究と並行して、人力飛行機の製作は1984(昭和59)年にMöwe Ⅰ世が産声をあげ、現在の航空研究会に受け継がれた。ひとつの大学で、いろいろな飛行機が次々に開発されるのは、世界でも珍しく、権威ある「ジェーン航空年鑑」でも本学部の実績が大企業の専門メーカと対等に紹介されている。
 長い歴史と伝統に培われた先輩たちの活動の様子がNHKの“プロジェクトⅩ~挑戦者たち~”で取り上げられ、「運命の滑走一日本初人力飛行機に挑む」が放映された。
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